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日本刀の魅力

7月 3, 2021 • admin

現在、特別な許可を必要とする日本刀を作りでありますが、日本刀を作る職人たちを「刀工」と呼ぶそうです。

「刀工」の他にも、「刀鍛冶」「刀匠」などとも呼ばれておりますが、日本刀を作る工程のなかでも鉄の鍛錬や刃の焼入れに関しては「刀鍛冶」、刃の表面を研ぐ人々を「研ぎ師」、鞘(さや)など刀を収める装具や金具に携わる人々を「鞘師」などとも呼んでいたそうです。

日本国内において日本刀を作るとなると、武用や美術品として古来からの伝統的な日本刀づくりに基づいてつくられることになります。現代の職人たちが伝統的な日本刀を制作する道しるべとしているものは、江戸時代からの「刀工」たちの記録によるものなのだそうです。

それ以前の日本刀づくりに関する記録がみつかっていないことから、江戸時代以前の時代に作られたとされる刀剣の数々は、ミステリアスなベールに包まれているのです。日本刀の魅力は、その美しさをつくり上げるための高度な技術が未だにすべてが解明されていないところにもありそうです。

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備前伝

6月 4, 2021 • admin

「備前伝」・・・平安時代後期以降、備前地方(岡山県南東部)で発生した刀匠集団による伝法。

明治の新々刀期まで続く流派。各時代の流行を取り入れるのがうまく、大いに繁栄した。

姿は茎のすぐ上から反りが始まる。地肌は板目に杢目を交えて良く詰み、細かな地沸が厚くつついている。また映りと呼ばれる刃文の影のような働きが出るのも備前伝の特徴とされる。刃縁の粒子は細かく輝く。帽子は乱れ込んで小丸に返ることが多い。

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小太刀

5月 4, 2021 • admin

日本刀には、太刀のほかにもいくつかの刀があります。
小太刀は、短い太刀であって、脇差の別名ではありません。
長さとしては、太刀よりは短く、脇差よりは長いのです。
そして、作りとしては、刀身に反りがあり、斬るための刀です。
また、剣術に「小太刀」の戦い方がありますが、どちらかというと女性用の剣術とされています。
つまり、短い太刀として、女性にも扱いやすい刀であったのでしょう。
なお、小太刀の起源を見ますと、戦用ではなく儀式用であったのではないかと言われています。
昔の元服は12歳ぐらいでしたので、その際の子供用の刀だったとも言われています。

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新撰組一の天才剣士「沖田総司」

4月 4, 2021 • admin

歴史上の人物、沖田総司は、新撰組一の天才剣士などと思う呼び声高かったようです。新撰組の一番隊組長として時代を駆け抜けた彼は、27年間の短い月日をどのように駆け抜けたのでしょうか。

その性格はフレンドリーで人見知りのない人柄であったなどとも言われております。師匠である近藤勇に対しても、敬う気持ちがとても強かった人物像であるようです。幼いうちに両親を亡くしているため、師匠である近藤勇の養父であった近藤俊輔のもとに引き取られることになったようです。

ここで、新撰組をなす近藤勇土方歳三らと出逢う運命であったようです。沖田総司は、近藤勇らとの出会いの中で厳しい剣術を学び、彼らと共に武士としての生き方を模索していたようです。

このような師弟関係の中で、近藤勇が開国しそうに突き進む中、沖田総司は近藤に従い、 天才剣士として新撰組を率いてもいたようです。

沖田総司は、結核を患うことが原因となり短命であったとされているようです。

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佐々木小次郎

3月 24, 2021 • admin

剣聖宮本武蔵との対決「巌流島の決戦」で有名な巌流佐々木小次郎だが、彼の生涯については数多くの謎に包まれている。そもそも、彼の実在を疑う向きもある。世に伝わってきた凡その見解としては、戦国期末から江戸時代初めの剣豪だと見られている。出自も、越前国浄教寺村出身説、豊前国田川郡出身説がある。富田勢源に中条流を学んだ。10代になると諸国で武者修行し、16歳で秘剣「燕返し」を体得した。中条流では、主に一尺五寸ぐらいの小太刀を用いるが、長身だったといわれる佐々木小次郎は師匠勢源より三尺余りの大太刀を用いた修練を命ぜられた。佐々木小次郎の愛刀といえば、身の丈程もある長剣通称「物干し竿」といわれた備前長船長光である。この長剣を背負い、肩越しに抜刀し、下段からせり上がるように振り抜く。飛ぶ燕でさえその切先から逃れられなかったことから「燕返し」名付けられたといわれている。

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名匠・正宗

2月 4, 2021 • admin

少しでも日本刀に興味のある人なら、「正宗」の名を知らない者はいないのではないだろうか。鎌倉時代末期に相模国(神奈川県)鎌倉で活躍した刀匠といわれるが、その経歴には謎が多い。

正宗は、在命中はそれほどの評価を得ておらず、死後、豊臣秀吉によってその名が広まり、諸大名がこぞって正宗を求めた。あまりの人気に正宗の数が足りなくなり、各地で偽物が作られたといわれている。明治時代には、武将に与える恩賞に困った秀吉が、刀剣の鑑定家・本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)と共謀して作り上げた虚構のブランドであり、正宗は実在しなかったという説がささやかれたこともある。 名匠といわれるほどの人物には逸話が多いものだ。

正宗にまつわる逸話をもう一つ紹介しよう。 正宗の父も刀匠だった。あるとき父は、京都に修業の旅に出たが、その留守中に火事を出し、家を失う。 正宗と母は、父を捜しに京都に向かうが、その途中、母も死んでしまった。残されたのは、唯一の手がかりである、父の残した日本刀だけ。 父を捜し出せぬまま、正宗は父と同じ刀匠の道に進むこととなった。ある日、師匠・行光が、正宗が大切にしている日本刀にふと目をやると、なんとそれは、自分が鍛えたものであった。父と子は、こうして再会したという。また、このとき父は、京都で再婚していたのだが、義母となる相手の女は突然現れた前妻の子の正宗に家の財産をとられるのではと心配し、正宗につらくあたった。しかし正宗は、義母が病気で倒れたときには水垢離(みずごり)をして快癒を祈り、暴徒に襲われた義母をかばって背中を斬られたこともあったといわれている。これらの逸話のほとんどは、後世の人聞が作った作り話とする説もあるが、たとえそうであっても、伝え聞く逸話は正宗を讃える話ばかり。努力と親孝行の人であったのは間違いないのではないだろうか。

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茎(なかご)の形

1月 4, 2021 • admin

刀剣の各部分の名称や役割を知ることで、日本刀を深く理解することができます。刀剣のうち柄に収まる部分を茎(なかご)と呼んでおり、目釘穴を使って取り外しをするために目にする人も多いかもしれません。ここに刀工の銘が刻まれており、やすりがけがされています。茎全体の仕立て方、茎尻の形状、銘を切っている位置はそれぞれ異なっています。作者や流派によってなど、理由はさまざまです。茎の形もさまざまな種類があります。まず、一般的な茎は「普通形」と言われています。一般的に知られている茎は、この形をしています。次に、雉子股形(きじももがた)と呼ばれる形です。平安時代から鎌倉時代にかけて、太刀に見られる形状です。その名前の通り、鳥の股の形に似ていることから名付けられています。なぜこのような形になったかというと、もともと衛府太刀拵の柄は、表と裏を俵鋲で留めていました。その部分を削って形を作ったために、このような特殊な形になったと言われています。次に、振袖形(ふりそでがた)です。茎の元先の幅に差がなく、真ん中の辺りでわずかに曲がっています。この形が振り袖を連想させることからの呼称です。鎌倉時代の短刀によく見られる形状と言われています。次に舟底形(ふなぞこがた)と言われるものです。茎の刃方のラインがゆったりとした曲線を描いており、茎先が細くなっています。舟底の形に似ていることからきています。相州系の刀工に多く見られると言われている茎です。最後は、鰱腹形(たなごばらがた)です。形としては、茎の下の部分が細くなっており、魚のタナゴに似ていることから呼ばれています。村正や、その一門に見られる特色がある茎と言われているそうです。

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五箇伝について

12月 4, 2020 • admin

日本刀はその作られた地域によって、「大和伝」「山城伝」「備前伝」「相州伝」「美濃伝」に分類されます。
大和伝は平安時代前期以降、大和地方(奈良県)で発生した刀匠集団による伝法。寺院のお抱え鍛冶として門前に居を構え、僧兵(そうへい…武装した僧侶)の武器として、実用本位の日本刀を作製した。無銘のものが多いのが特徴。
姿は反りの中心が刀身の中央にある「輪反り(わぞり)」が雄大につき、鏑が高く、鏑幅が広い。地肌(じはだ)は柾目(まさめ)肌を交える。刃文は直刃(すぐは)を基調とし、刃縁(はぶち)に金筋、砂流しなどさまざまな働きが現れる。帽子は掃き掛けて浅く返るか、焼き詰めとなることが多い。

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刀と馬は並みが良し

11月 4, 2020 • admin

戦国の世の武士たちは自分好みの刀剣を振りかざしていたというようなイメージがありますが、実際にはこのような戦いの場で高価な刀を使うことは稀であったようです。刀に限らず高価な馬なども戦場で怪我をするのではないかなどといった心配から、戦いに集中できなくなってしまう兵士たちもいたようです。刀も同じように高価な刀を手に入れてしまうと、どうしても傷をつけたくないという思いから、刀を抜いて試し切りするようなことも控えてしまうようになり、良い刀を手にすると剣の腕が鈍るなどとも言われていたそうです。さらには人々が集まる場所などで多くの武士たちが刀を一箇所にまとめて置くような場合、お互いにどれが自分の刀であったか見分けがつかなくなり、他人の物と取り違えてしまうというようなことも少なくなかったようです。専門家たちの述べるところによりますと名刀などと呼ばれる日本刀は、実際に戦場などでは使われなかったのではないかと考えられているようです。

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独眼竜と不動明王の剣

10月 6, 2020 • admin
不動明を生涯、崇めた伊達政宗の刀として知られる「大倶利伽羅(おおくりから)」は、サンスクリット語で竜王の名を表すのだそうです。 「倶利伽羅剣」は、不動明王が手にした剣であり、この剣をもって竜王を倒したと伝えられているそうです。「独眼竜」の名で知られる伊達政宗は、幼い頃病によって片目を失ってしまったことにより、自分自身が醜い容姿をしていることを恥じながら暮らしていたそうです。ある日、お寺の不動明王を目にした時に、お寺の住職から不動明王は慈悲深い仏様であることを知らされます。不動明王は、仏の道に背く悪人を懲らしめるために邪悪な心を憎むように、あのようなしかめっ面をしているのだというような説法を聞いたのだそうです。 不正義なものには厳しく接し、 善人には優しく接する不動明王のようにありたいものだと、幼い頃の伊達政宗は、自分の容姿の醜さを慰めるように、不動明王の生き方を自分自身に重ねていたというような逸話が残されているようです。天下統一を成し遂げるために歴史上にその存在感を放った伊達政宗が手にしていた日本刀には、不動明王が手にしていた剣の名である「倶利伽羅」が刻まれています。幼い頃の志が、正宗の剣として世の中の不正義を成敗していたのかもしれません。現代においてもその 英雄ぶりが伝えられる伊達政宗に、最もふさわしい名前の件であるかもしれませんね。幼い頃に抱いた不動明王への憧れと志を持った剣として、ファンの間では人気が高いようです。皆さんにも、幼い頃の志を反映した愛着のあるものはありますか。
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